
道路の雪がガタガタで足元の悪いなか、いつもの北区民センターで定例会を開催しました。
前半は読経とプチ瞑想。後半はパティパダ巻頭法話の輪読をしました。ダンマパダの賢者の章の続きでした。
82. Yathāpi rahado gambhīro, vippasanno anāvilo; Evaṃ dhammāni sutvāna, vippasīdanti paṇḍitā.
82. たとえば、また、深い湖が、清らかで濁りなきように、このように、賢者たちは、諸々の法(教え)を聞いて、〔心が〕清まる。
今月のポイント
●こころは皆に平等です 一人ひとりの生命に、自分固有のこころの流れがあります。仏典では、こころとは認識する働きだと定義されています。
●認識することで個が現れます すべての生命のこころは同じですが、認識する働きによってそれぞれが違う生命になっているのです。
●感情が認識にバイアスをかけます
欲が現れたら、 欲に負けてしまう。怒りが現れたら、怒りに負けてしまう。怠けが顔を出したら、怠けに負けてしまう。千五百もある感情に、敗北を喫しない瞬間はないのです。寝ていても感情は活動するので、夢という認識の流れが起きます。こころとは、荒波、渦巻きなどで暴れる認識の濁流なのです。これが、個人というものです。 ●ありのままに認識するために修行が必要です
ありのままに物事を認識できるように、こころを戒めるのです。それまでは荒波を立てて暴れていた巨大な湖の水面が、波一つなく静まります (vippasanno)。水を濁らせていた汚れは湖底に沈んで土に戻ります(anāvilo)。ついに、 澄んだ水をたたえた深い湖 (rahado gambhiro) が姿をあらわします。理性ある人は真理を聴いてそれを実践し、そうして静まり澄んだ深い湖のようなこころを作るのです(Evam dhammāni sutvāna, vippasīdanti panditā)。要するに、認識の波がないこころ、解脱のこころを作るということです。
●人は認識にこころと言っています 認識とは汚れたこころてあり、小さくなった個のこころでもあります。
●こころを認識することは難しい こころそのものは認識できません。
●解脱に達するとき本来のこころが顕れます
仏道を実践してこころの煩悩を無くし、認識作用を停止させるならば、 極限に安穏な本来のこころが顕れます。 ●何も認識しないこころが解脱のこころです 修行者のこころが徐々に認識作用を減らし、煩悩も無くしてしまえば、本来のこころのみ顕れることを「静まり澄んだ深い湖」にたとえているのです。
久しぶりに定例会に参加された方もおり、参加者7名でした。皆様ありがとうございました。
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