第一部 ジャータカ朗読
今回は「030. Muṇika jātakaムニカ」弟の牛はおいしい御馳走をらう豚のムニカをうらやんだ。兄の牛は弟をいさめた。やがて婚礼の日がくると、ムニカは大勢の人々のご馳走の品となった物語です。
マハーローヒタ(大赤)と名づけられた兄牛は、弟牛のチュッラローヒタ(小赤)に美味しいごちそうを食べている豚のムニカを羨んではいけないよと次の詩を唱えました。 死ぬ前の食べ物を食べている豚を羨ましがってはいけません。
代わりに、謙虚に籾殻を食べることが大切です。
これは長寿のしるしでもありますよ。
【この物語の教訓】
① 仏教では、「慈しみ」「哀れみ」は良いのですが、「愛着」「愛情」などは悪いといっているのです。
② 一般的に人は皆、思う存分贅沢をして、やりたいことをやって、自由奔放に生きることが出来れば幸福だと思い込んでいるのです。でも実際に、我々にはそのような生き方を実現出来るものでしょうか。いくら財産に恵まれても、苦しみは他の側面から攻撃してくるのです。
③ 勉強するべきときに苦労して勉強しないで、いざ試験が迫ってきても徹夜して頑張ることさえせず、仕事に就いても真剣に励まないで、怠けたりふざけたり遊びほうけたりする人々もいます。しかし彼らの「楽しみ」は束の間のもので、結局は一生不幸な人間で過ごすことになります。
④ 地道にこつこつと生きることこそが、幸せな生き方です。
詳細はジャータカ朗読会のHPをご覧ください。
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第二部『大念処経』 今回は「Ⅰ身の随感(出入息の部、威儀の部、正知の部、厭逆思惟の部、要素思惟の部、九墓地の部)」のうち「威儀の部」と「正知の部」を終えました。
〇威儀の部Kāyānupassanā iriyāpathapabbaṃ
4.(5) 375. ‘‘Puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu gacchanto vā ‘gacchāmī’ti pajānāti, ṭhito vā ‘ṭhitomhī’ti pajānāti, nisinno vā ‘nisinnomhī’ti pajānāti, sayāno vā ‘sayānomhī’ti pajānāti, yathā yathā vā panassa kāyo paṇihito hoti, tathā tathā naṃ pajānāti.
4 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、行っているときは〈私は行っている〉と知ります。あるいは、立っているときは〈私は立っている〉と知ります。あるいは、坐っているときは〈私は坐っている〉と知ります。あるいは、臥しているときは〈私は臥している〉と知ります。そしてかれは、身体をどのように動かすのか、そのとおりに知ります。
(瞑想の進め方)
Iti ajjhattaṃ vā kāye kāyānupassī viharati, bahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati, ajjhattabahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati. Samudayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, vayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, samudayavayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati. ‘Atthi kāyo’ti vā panassa sati paccupaṭṭhitā hoti yāvadeva ñāṇamattāya paṭissatimattāya anissito ca viharati, na ca kiñci loke upādiyati. Evampi kho, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati.
以上のように、内の身において身を観つづけて住みます。あるいは、外の身において身を観つづけて住みます。あるいは、内と外の身において身を観つづけて住みます。 また、身において生起の法を観つづけて住みます。あるいは、身において滅尽の法を観つづけて住みます。あるいは、身において生起と滅尽の法を観つづけて住みます。 そして、かれに〈身がある〉との念が現前します。それは他でもない、智のため念のためになります。かれは、依存することなく住み、世のいかなるものにも執着することがありません。このようにまた、比丘たちよ、比丘は身において身を観つづけて住むのです。
〇正知の部Kāyānupassanā sampajānapabbaṃ
(よく気づくとは「脳細胞を全部使う」こと)
5.(6) 376. ‘‘Puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu abhikkante paṭikkante sampajānakārī hoti, ālokite vilokite sampajānakārī hoti, samiñjite pasārite sampajānakārī hoti, saṅghāṭipattacīvaradhāraṇe sampajānakārī hoti, asite pīte khāyite sāyite sampajānakārī hoti, uccārapassāvakamme sampajānakārī hoti, gate ṭhite nisinne sutte jāgarite bhāsite tuṇhībhāve sampajānakārī hoti. Iti ajjhattaṃ vā…pe… evampi kho, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati.
5 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、進むにも、退くにも、正知をもって行動します。真直ぐ見るにも、あちこち見るにも、正知をもって行動します。曲げるにも、伸ばすにも、正知をもって行動します。大衣と鉢衣を持つにも、正知をもって行動します。食べるにも、飲むにも、噛むにも、嘗めるにも、正知をもって行動します。大便・小便をするにも、正知をもって行動します。行くにも、立つにも、坐るにも、眠るにも、目覚めるにも、語るにも、黙するにも、正知をもって行動します。以上のように、内の身において身を観つづけて住みます。あるいは、外の身において身を観つづけて住みます。あるいは、内と外の身において身を観つづけて住みます。また、身において生起の法を観つづけて住みます。あるいは、身において滅尽の法を観つづけて住みます。あるいは、身において生起と滅尽の法を観つづけて住みます。そして、かれに〈身がある〉との念が現前します。それは他でもない、智のため念のためになります。かれは、依存することなく住み、世のいかなるものにも執着することがありません。このようにまた、比丘たちよ、比丘は身において身を観つづけて住むのです。
次回は「厭逆思惟の部」(87頁)からです。
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第三部 ダンマパダ法句経
11 . Jarā-vaggo老の章(146~156(11))を確認しました。次回は 12 . Atta-vaggo自己の章(157~166(10))です。札幌仏教塾のHPを参照ください。
札幌も夏本番でした。エルプラザ特別会議室の涼しい環境で時間を過ごすことができました。3名の御参加を頂きました。皆様お忙しい中たいへんありがとうございました。
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